泥クサク 美シク。

舞書家Chad.の徒然。日常の泥くささもすべてアートであり表現だと思っています。

ヒロシマとかナガサキとか。

6日ヒロシマ、9日ナガサキ
日本でどれくらいの人が意識して過ごしたんやろう。

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こないだ、うちで戦争が起こりました。
パートナーと。ゴミ箱がひっくり返り、
甘エビが飛んでくる大惨事だった。

キッカケはパートナーが、
折り鶴の所以やヒロシマの8時15分を知らへんかったこと。

わたしは広島出身で、
毎年8月6日は小学校の登校日。

朝8時15分には黙とうして、
全校生徒で折鶴を折って、戦争のお話をきく。

それがずっと”当たり前”だったから、
「戦争はだめなんでしょ、もうわかったよ」と思いつつ

折り鶴は日本人みんな折れるもんやと思ってたし、
8月6日と9日もみんな知ってるものと思って育った。

でも、高校卒業して関西にでると、
そんなこと知らない人のほうが多いんだってことに気づかされる。

8月6日の8時15分にサイレンは鳴らないし、
折り鶴のおり方だって、
周りに知ってる人、ほぼいなかった。

「ああ、教科書の一行に過ぎないのか。。。」って

それって当時、すごいショックだったことで。
でも歳と共に、「しょうがないよね」
って咀嚼されてった感覚でもあった。

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そんな折。パートナーと折り鶴の話をしていて
「さだこ?誰それ」って言われたとき、
なにかが壊れた気がして。
(さだこさんは折り鶴のキーパーソン)

そっか。この人「でさえ」も知らないのか。。
という、ショックだった。

パートナーという、一番近い存在であるからこそ、
そして「平和」というテーマを背負いながら音楽活動している
彼だからこその、「知っててほしい」期待もあったんだと思う

それでカッとなって、「そんなことも知らないで、
平和だなんて簡単に語らんといてほしい」って言ったの

「はいはい調べたらいいんでしょ」って
無造作にスマホで8時15分を調べる彼の姿。
いろんなものが大事にされていないように、感じてしまった瞬間。

でも、逆にね。
彼は在日コリアンだけど 
在日コリアンや韓国の歴史を
わたしはたぶんちゃんとは知らない。

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それと同じことなんだと思う。
わたしにとっての当たり前は誰かにとっての当たり前じゃない。

なんなら東京だって東北だって
それぞれの時代にそれぞれの場所で大変だった。

世界の戦争も、家のちいさな戦争も、
はじまりは一緒なのかしら。。?

けどね。ほんとに思うんだ
「平和」を考えるのは、6日や9日だけではないし、
ヒロシマナガサキ沖縄の人だけじゃない。

すべてのことが、
他人事じゃないんだよ、と思うんだ

だからね
それを発信したいと、一番最初に思ったときに、
わたしのパフォーマンスは生まれたんだよ。

沖縄の辺野古の米軍基地に行ったとき。
そこで毎日24時間、何日も何か月も、休むことなく、
テントはって声はって体はって
座り込み抗議している人たちがいた。

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そこには沖縄の人の中でも賛否両論あるし、
いいとか悪いとか、「こうすべき」とかでもない。

ただ、そこで起こってることは大変で、
人のユーモアや人間性はとってもあたたかくて、
そんなわたしが見ているリアルは、
発信したいと思ったんだよね。

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その時、わたしは路上で書くのを始めたばかり。
みんなはそれを応援してくれていた。
だから、アートというツールをつかって発信したら
受け取ってもらいやすくなるんじゃないか。

それで、辺野古米軍基地の前で巨大書を書いたのが、
いちばんはじめのキッカケだったんだ。

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「チャド左翼やんww」とかって
友達に言われたりもした。
やから「平和」とか、
それに関することを発信するのには
勇気がいる、ビビる、今でも。

でもそうやって避けてるとさ
大事なことを置き去りにして、
逃げてるだけな気がして。

大学の先生が言ってたことでひとつ覚えてるのは
「誰かの犠牲の上になりたってる幸せがある
ということを忘れないでください」

今も沖縄で苦しんでる人がいたり、
基地だけじゃない、原発でもダムでも、何でも。

そして、猛暑な毎日だけど、これより想像できない熱のなか
どろどろに溶けて亡くなっていった人たちの魂。

来年一緒にイベントやりましょうと
言っていた人が亡くなったり
大好きな居場所が閉店してしまったり、
大好きなバンドがばらばらになってしまったり、

「また今度」がもうこないんだな、
って思うことがすごく多い、最近。

「平和」とか、なにも難しいことじゃない。
今であり日常のなかにちゃんとあるもの。

やからこそ、
生かさせてもろててる今を
ちゃんとありがたいなと実感しながら生きたいし

また今度、にしないように。思った時に思ったことを表して生きてゆきたいね。

 

Chad.
20170809@広島県竹原市